共感や感動は、つまりは独り相撲だと知るべきだと思う。
涙活、なるものがあるらしい。
テレビやラジオにうとい私。
先日友人から教えてもら
「泣くのは体にいいらしい」
「なんでも、結婚式で感動して流す涙が一番いいらしい」
ーなんじゃそりゃ!?
どうも日本人は、活動とか運動とかに弱い。
それについては一言も二言も言いたいが置いておこう。
さっそくリサーチ開始。
ruikatsu.com
なんてオシャレなウェブサイト。
なになに?
- 涙活とは
能動的に涙を流すことによって心のデトックスを図る活動。
離婚式のプランナーである寺井広樹が提唱。
ふむふむ。友だちは離婚式を結婚式と間違えたのかもしれないな。
- 涙活の効果
緊張やストレスに関係する交感神経から、脳がリラックスした状態の副交感神経へとスイッチが切り替わります。
効果があるのは、玉ねぎを切った時の涙や、ドライアイの涙じゃないらしい。
感動して流す=能動的に流す共感の涙
であって、
自分自身の体験に基づく悲しみの涙ではない。
自分自身の経験で「悲しみの涙」を流すのと、感動的な動画などに共感して「感動の涙」を流すのとでは感覚が全く異なる。いずれもストレスは解消されるが、よりいいのは自分と直接関係がなく、それでいて共感できるものを見たり聞いたりして泣くことであるとされる。
そして、ruikatsu.comには、
10分程度でお手軽に泣けるようなYoutube動画や書籍の紹介がどっさり。
カツ丼にも活動にも弱い日本人のために、親切きわまりない作りになっている。
さてさて、なんだかついついトゲのある言葉遣いばっかりしてしまっている気がしているが、なにを隠そう、私にはこの涙活なるものが全く理解できないのだ。
なににモヤモヤしてるんだろう?
自問して出てきたこと。
「共感する」ってなんですか?
感動って、なにに対してできるんですか?
我思うに・・・。
共感って、自分の抱えているものを他人の中に見たときに「相手=自分の分身=同情」が三位一体になって起こるものなのではないか。
感動って、
「誰かがやることが、とうてい自分にはできないような立派なことであったとき」にするのではないか。
そして、涙活は、
自分のことを直視なんてできないから、
周りをみて、心動いたら涙を流して、
自分のことを直視せずとも、持ってるキズを癒しましょう。
そういうことなのだろうと感じるのだ。
いちいち、自分に向き合っているのはしんどいから、そういうやり方はあってもいいと思う。
でも、なんだかそのマニュアルやフォーマットがあるのは気持ち悪い。
そう思ってしまうのは、
世の中の感動のストーリーは、
だいたい家族や愛や別れの物語で、
それは、世の中にそれだけ家族や愛や別れがありふれていて、避けては通れないからなのだと思うけど、
でも、
世の中には、そういう愛の形や家族の形をしていない人もいて、
ruikatsu.comでお手軽に手に入るような本や動画は、感情移入なんてできない人はいっぱいいる。
そう思うからだ。
”当たり前”のフォーマットにハマった人たちだけが楽しむ涙活。
なんてぜいたくなんだろう。
そう思ってしまうのは、自分がひねくれているからなのだろうか。
ここまで書いて、なにも見ないで批判はよくないと、youtubeで涙活のビデオを見てみたが・・・。
4つでギブアップ!
泣けるどころか、イライラとモヤモヤばかりだった。
・東日本大震災をとりあげたもの。
・障害のある方の結婚式の父親への手紙。
・オリンピックのスポーツマンシップの話。
違うチャンネルから、
・脳性マヒの方がお母さんに書いた詩
うーん。
どれもこれも、
「フツーは○○!だけど△△。だから感謝。そして感動」
みたいな図式にまとめることができる。
さぁ、感動せよ!さぁ落涙せよ!
と言わんばかりのBGMもあいまって、幻滅。
これって、オフィシャルなやつじゃないからかもしれないけど、
これだけ「泣ける話」「感動の話」
と銘打って、どうにもこうにも、題材になっている方々に失礼極まりないものがyoutubeに溢れているとは驚いた。
まずは動画の文脈の「フツー」をシェアしなさい
というのであれば、
もはや暴力的ともいえる動画の数々。
それを、「涙活」という名の下に大量にばらまいているとすれば、
もはや「人類類型化活動」略してruikatsuではないか。
さきに書いたように、
感動も、共感も、自分のものさしを当てはめられる相手にしか、起こらないのである。
ある意味、自己投影であり、自己拡張であるのだ。
涙活で共感の涙を流す人は、
ぜひそのことを覚えておいてもらいたいなと思う。
あなたが感動の涙を流すたび、
あなたはその文脈の「フツー」の類に染まっている。