Non-binary日記

心ー魂ー体 すべてで生きていくために。ジェンダーのこと、身の回りの思うこと。

宇宙とつながる文学『モモ』

「子どもの頃にちゃんと読んでおきたかったー!」という想いをしたのは、『星の王子様』以来。でも、私は本とはいつも運命のタイミングで出会うのだと信じているフシがあって、この『モモ』も我慢できないほど読みたくなった今というタイミングだったからこそ、たくさんのメッセージに気づけたと思う。

ネタバレ含むけど、思いついたことを大まかにまとめちゃう。

エンデは間違いなく、プラトンや古代哲学者と同じく、星の声が聞こえていた人だ。宇宙の声を聞き、星の子どもとしての人間の命の本質を見通していた。

宇宙の音楽、心の花の色を見たモモがひとりぼっちになってしまった場面での描写は、この世を生きていたエンデの心持ちそのものだったと思う。

「モモはまるで、はかり知れないほど宝のつまったほら穴にとじこめられているような気がしました・・・ときには、あの音楽を聞かず、あの色を見なければよかったと思うことさえありました。それでも、もしこの記憶を消しさってしまおうと言われたとしたら、どんな代償をもらおうと、やはりいやだとこたたことでしょう。たとえその記憶の重みにおしひしがれて、死ななければならないとしてもです。なぜなら、今モモが身をもって知ったことーそれは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、それをもっているがために破滅してしまうような、そういう富があるということだったからです。ー」(p317)

だからきっとエンデは、数々の美しい物語を書き続けた。書き続けなければならない運命を背負わされた、といってもいいのだろう。なんて美しい宿命なんだと憧れてしまう。

さて。

ここに出てくる「時の国」の構図を読み解いていくと、実に興味深いエンデの考え方が現れてくる。

モモに至福体験をさせてくれ、時の叡智を授けてくれた<どこでもない家>=”時の国”。ここに行き着くには、2つの不思議な空間を通る。

一つ目が、夜明けとも夕暮れともつかぬ光が満ち、影がバラバラな方向を向く場所。家が眩しいほどに白く輝き、窓が暗く、むこうには四角く黒い石に巨大な卵のようなものが乗るモニュメントがある”ふしぎな地区”。

二つ目が、逆さまに動かなければいけない”さかさま小路”。につく。

これらを物語の文脈に沿って解釈していくと。

<どこでもない家>=死、もしくは星々の音楽の領域。時間を司るマイスター・ホラのすみか。
”さかさま小路”=生と死の間の領域
”ふしぎな地区”=生の領域

と考えられる。

ここで注目したいのは”ふしぎな地区”のことである。
これ、”生”の領域なのだが、その特徴はといえば・・・

・夜明けとも夕暮れともつかぬ光が満ちている
・あらゆる方角から光が降り注いでいて、影がバラバラの角度
・生き物はいないし、動きが全くない

そしてなにより・・・
・ノロイホドハヤイ=「ゆっくりほど速い」

これって実は、私たちの人生のことなんですよね。差し込む光は無数にあって、時間は他人が決めることはできない。そして、時間泥棒に奪われていない「本当」の私たちの”生”の時間は、ゆっくりほど速く進んでいる。ゆっくり=非効率的に思えるものほど、本当はその心の奥の「星の振り子」がかけがえのない美しさをたたえた「時の花」を育むから。

そして、「時の花」を育む私たちはきっと、生きがいや幸せにあふれているから。

心が時間そのものだと気づかせてくれる。
宇宙の光の中で、自分の心の振り子=星の振り子 を動かしたら、黒い水面=自分の無意識 から、美しい花が咲く。

自分はまだまだいつも、効率やら効果やらお金やら、目先のことにとらわれまくってて、時間泥棒から時間を取り返したとは思えていないけど、この本を読んで、取り返すコツをまた一つ見つけた気がしている。

去年の末、アメリカのトランスジェンダーで、ホルモン治療を始めた10代の子どもとその家族のインタビュー動画をみた。


頭は、「こうこうこういう理屈で、この主張をただ垂れ流すのは既存のジェンダーの型にはまれって言っているようなものでダメだ!」


って言うんだけど、今まで10年くらいずっと、その言葉にしか耳を貸してこなかったんだのだけど、こないだついに、心の声がはっきり聞こえてしまった。


うらやましい。


「そっか、そう思ってるんだ」


認められたら、ホルモンやるかやらないかとか置いといて、今の自分をもう少し受け入れられる気持ちになれて、すごく楽になった。


だいたいいつも、自分の「問題」の原因を作っているのは、それを「問題」だと設定している自分自身だ。

今どき30代は、皮膚呼吸をして生きている①ー「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を観て、

 

ここ数日の「点」が「線」になった。

 

どんな点がどんな線になったのかと言われたら、

 

「30代、いいじゃん」ってことに尽きる。

 

「いい」

 

っていうのは、もちろん価値判断で、

つまり、おれにとっていい、ということ。

 

おれが思っていることを次々と、

いろんな分野で形にしてくれる人が現れている。

 

それは翻って、自分の感じていることや考えていることは、

きっと間違っていないっていう勇気を与えてくれる。

 

「もやもや」を抱えることは、まちがったことじゃない。

それを理由に自分をマイナス評価をする必要はない。

その「もやもや」や、逃れられなかった「宿命」とともに、

 

生きていこうよ。

 

そんなメッセージ、実はこの1週間で3度も浴びている。

(他の2回は、別の日に紹介することにする)

 

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」は、

1983年生まれの石井裕也が、

1986年生まれの詩人、最果タヒの同名の詩にインスパイアされて作られている。

 

映画のキャッチコピーには、タイトルの由来になった詩。

 

都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ
塗った爪の色を、きみの体の内側に
探したってみつかりやしない
夜空はいつでも最高密度の青色だ
誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない

 

www.yozora-movie.com

 

 

映画のストーリーについてごくごく簡単に言うと、

 

都会で社会の「底辺」として傷を抱えて生きる男女が、出会い、だんだんその距離を縮め、絶望的でどこか悲しくて、苦しくて、果てない日常に、少しだけ希望を見出す物語である。

 

もう、「はやくどっかで泣かせてよ」って思ってしまうほど、

どこか苦しい毎日が描かれる。

 

生きるためって言えるほどのやる気も目的も持てないのに、

生きるのには金がかかる。

 

キツい仕事をしては、毎日の命を買っている。

 

道の片隅で生きる犬は、やがて殺処分されていく。

 

工事現場で突然死んだ同僚を弔う場で

「職場で死ぬなって言っとけ」という職場の上司がいる。

 

イラクでは、シリアでは、何人も人が死んでいる。

 

・・・・。

 

なにを、どう感じたらいいんだろう。

 

こういう現実を無視してたら、楽しく生きていけるのかな。

 

でも、

 

悲しい不条理な現実があることにも、

 

それを見て見ぬフリしちゃってる自分にも、ちゃんと気づいている。

 

 

そしてそれは、じわじわとおれたちから、

生きる「輝き」みたいなものを奪っている。

 

それは、ただのおれの個人的な「弱さ」や「甘え」だと思っていた。

 

だけど、どうも違うらしい、と最近思い始めていて、

 

この映画は、実に上手にその感覚を描いている。

 

最果さんの詩から、今まで言葉にできなかったもやもやとした気分にどうにかこうにか触れようとしている姿勢を感じて、そこを中心とした、ボーイミーツガールの恋愛映画を作りました。 

映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ インタビュー: 「今の時代、いかにして生きるか」石井裕也監督、石橋静河&池松壮亮主演で現代詩を映像化 - 映画.com

 

「ザマァみろ」

 

最後の方で、ある登場人物が言う。

 

そうか、生きてることにそう吐き捨てればいいんだ。

 

「ザマァみろ」

 

それは、不条理に死んでしまう不幸を、祝福するための魔法。

不条理の中に生きるしかない不幸を、祝福するための魔法。

 

そんな両義的な呪詛の言葉で、

おれたちはこの街を生き延びている。

 

浮遊するように生きる、

ということは、

 

ダメでも弱さでも無気力でもなくて、

 

航海術なんだ。

 

誰かをブチのめす正しさのあやしさに気づいてしまった30代。

 

大風呂敷な愛の言葉が、怒りと同じくらいに

ただエネルギーだけを奪っていくんだってことに気づいてしまった30代。

 

そうして、安易な言葉で他人に手を伸ばさないくせに、

共に呼吸をしていることに安らぎを見出そうとする絶望的な優しさを試みる30代。

 

「いいじゃん」

 

 

 

インプット週間の果てに

 

今週は、全体的にだるいなーと思いつつも、

気がついたらたくさんの出会いとインプットに満ちた週でありました。

 

7月19日には、

代官山にある現代アートの学校MADで、

「ざつぜんと生きる」という、

横浜市の地域作業所「カプカプ」の話

 

7月21日には、

横浜の黄金町にある「旧劇場」なる元ストリップ劇場で、

「たたみかた」という「30代のための社会文芸誌」を創刊した

「アタシ社」の三根さんのお話。

 

もー、どちらも超刺激的で、

人生観変わって、

自分をつきつめるいいきっかけやメッセージに溢れていた。

これら、後日ぼちぼち紹介したい。

 

Shummy(シュミー)を始める<2017年5月現在、1,000円引きクーポン配布中!> 

 

が、今日のところは、そんな刺激を受けたおれが、

どれだけ古いパターンに囚われてウジウジしているかの一人劇場。

 

以下、デロデロと吐き出すので注意。

 

つまり、一週間にして、

 

同世代や、同じようなキャリアだった人から

「自分のやりたいことにつきすすめ」

「自分の中の”囚われ”に気づいて自由に生きよう」

 

というメッセージをたくさん浴びたわけである。

 

そうしたら、なぜか昨日から急に、

 

取り組むべき未解決課題・・・

 

「胸を取り除きたい」問題が再燃。

 

あわせて「どっかでバイトでもするか」問題に発展。

 

トムとジェリーが永遠に追いかけっこを繰り返しているように、

ゾンビ一人に捕まると、すぐにゾンビまみれになるように、

 

10年くらいパパっと振り払ってはシュッと襲われるこの2大問題。

 

 

どーでもいいのに、一生ウジウジモニモニできてしまうかもくらい、

おれの何かに引っかかって、解決に至らない。

 

この、胸オペ問題。

 

気になり始めると、胸オペGOちゃんは、

 

「さっさと100万円稼いでオペをすればよろしい。

毎日ちょっとずつ不快である人生を

これから先ずーっと続けることを考えたら、

1年かかったって安いもんでしょ。」

 

という。

 

その通り!

さっそくGoogleで胸オペのできる病院をチェック!

 

 

でもでも、ちょっと待った。

 

「これって、胸のない女が

”モテないし自分嫌いだから、豊胸手術を受けたい!”

って言ってるのと同レベルな発想だよ?いいの?いいの?」

 

 

もう一人のおれが出てきて、「ダメ、絶対☆」的なプレッシャーをかける。

 

 

こちらの言い分はこんな感じ。

 

今、あなたは

「女は細くて胸が大きくないとダメ」

「男はいい感じな逆三角形じゃなきゃね!」

 

っていう世の中の思い込みに自分を当てはめて苦しんでいるにすぎない。

 

本当は、

「どんな体だって、ありたい自分でいられる」

 

そういう社会を目指したいんでしょ?

 

自分の体に納得できないのは、

世の中の「当たり前」の圧力に負けているから。

 

本当はあなたは、

自分の体のままで、自分の心がくちゃくちゃにならない自分

になりたいのであって、

 

変えたいのは、

この胸じゃなくて、

この胸を切らないとしんどいあなたのものの見方なんでしょ?

周りの人のものの見方なんでしょ?

 

安易に胸の不愉快さに屈してはダメ、絶対☆

 

・・・そんなことを、

学校の先生のごとくブワーッと脳内でのたまって消えていく。

 

そういう「正しさ」も、よくわかる。

 

だから、

簡単にお金を貯めて胸を切ることは、

どこか、「負け」な気がしてしまうのだ。

 

あー、面倒くさい性格。

 

 

そう、どちらの「言い分」も「正しい」から、

おれは、自分で一番、納得ができる方向に進んでいくしかない。

 

それが、こうしてずーっと終わらない追いかけっこを続けることなのか、

1年間、がんばってバイトして胸を切ることなのか、まだわからない。

 

ん?

 

と思う方もいると思う。

 

そう、おれは定職についていない。

まだ、これもおれなりの囚われがあって、

正規雇用というものについたことがないのだ。

 

 

自分の「やりたいこと」だけで生きていきたいと決めているから

うっかりバイトや就職をして、

不本意なことに手を出すのも、「負け」なのだ。

 

あ〜、面倒臭い。

しっかりがっつり「社会人」の世界に入って、

 

学べることも多くあるだろうに。

 

自分の心身を削ぐようで、単純に怖い。

 

だから・・・

自分が日本社会で働けるか不安だから、

胸オペしちゃだめダメ絶対☆キャラを脳内で作り出しているのだろうか。

 

それとも、胸オペにかかわって、

親の説得とか、

ますます公共の風呂に入れないよ問題が発生するから、

そういう問題が不安だから、

その段階に到達できないようにお金を稼げない自分がいるのか。

 

あー、面倒臭い。

 

そしていつも思うんだ。

 

そんなの誰も、気にしてねぇよって。

 

本当に自分が向き合うべき問題は、ここにある、のだろうか。

 

でも、生きてるって、周りからみたらどうでもいい「問題」を

納得できるように整理したり、乗り越えたりしていく、

それ以外のことでしかないんだと思う。

 

大きい山や、小さい山があるだろうけど。

 

中途半端に選択肢があるように見えると、余計に悩むんだろうけど。

 

どうでもよくて。

本当は、もっと、自分の勢いに任せて生きる術が欲しいんだ。

 

本当は、自分が迷わず全力で走れるレールを、

探しているんだろうな。

 

まだまだ、手ぬるくって、嫌気がさして、

そして自分の要求は「胸を切れ」になるんだろうな。

 

共感や感動は、つまりは独り相撲だと知るべきだと思う。

涙活、なるものがあるらしい。

 

テレビやラジオにうとい私。

先日友人から教えてもら

 

「泣くのは体にいいらしい」

 

「なんでも、結婚式で感動して流す涙が一番いいらしい」

 

ーなんじゃそりゃ!?

 

どうも日本人は、活動とか運動とかに弱い。

それについては一言も二言も言いたいが置いておこう。

 

さっそくリサーチ開始。

ruikatsu.com

 

 なんてオシャレなウェブサイト。

 

なになに?

 

  • 涙活とは

能動的に涙を流すことによって心のデトックスを図る活動。

 

離婚式のプランナーである寺井広樹が提唱。

 

ふむふむ。友だちは離婚式を結婚式と間違えたのかもしれないな。

  • 涙活の効果

緊張やストレスに関係する交感神経から、脳がリラックスした状態の副交感神経へとスイッチが切り替わります。

 

効果があるのは、玉ねぎを切った時の涙や、ドライアイの涙じゃないらしい。

 

感動して流す=能動的に流す共感の涙

 

であって、

自分自身の体験に基づく悲しみの涙ではない。

 

自分自身の経験で「悲しみの涙」を流すのと、感動的な動画などに共感して「感動の涙」を流すのとでは感覚が全く異なる。いずれもストレスは解消されるが、よりいいのは自分と直接関係がなく、それでいて共感できるものを見たり聞いたりして泣くことであるとされる。

 *1

 

そして、ruikatsu.comには、

10分程度でお手軽に泣けるようなYoutube動画や書籍の紹介がどっさり。

 

カツ丼にも活動にも弱い日本人のために、親切きわまりない作りになっている。

 

さてさて、なんだかついついトゲのある言葉遣いばっかりしてしまっている気がしているが、なにを隠そう、私にはこの涙活なるものが全く理解できないのだ。

 

なににモヤモヤしてるんだろう?

自問して出てきたこと。

 

「共感する」ってなんですか?

感動って、なにに対してできるんですか?

 

我思うに・・・。

 

共感って、自分の抱えているものを他人の中に見たときに「相手=自分の分身=同情」が三位一体になって起こるものなのではないか。

 

感動って、

「誰かがやることが、とうてい自分にはできないような立派なことであったとき」にするのではないか。

 

そして、涙活は、

 

自分のことを直視なんてできないから、

周りをみて、心動いたら涙を流して、

自分のことを直視せずとも、持ってるキズを癒しましょう。

 

そういうことなのだろうと感じるのだ。

 

いちいち、自分に向き合っているのはしんどいから、そういうやり方はあってもいいと思う。

 

でも、なんだかそのマニュアルやフォーマットがあるのは気持ち悪い。

 

そう思ってしまうのは、

 

世の中の感動のストーリーは、

だいたい家族や愛や別れの物語で、

それは、世の中にそれだけ家族や愛や別れがありふれていて、避けては通れないからなのだと思うけど、

 

でも、

 

世の中には、そういう愛の形や家族の形をしていない人もいて、

ruikatsu.comでお手軽に手に入るような本や動画は、感情移入なんてできない人はいっぱいいる。

 

そう思うからだ。

 

”当たり前”のフォーマットにハマった人たちだけが楽しむ涙活。

 

 

なんてぜいたくなんだろう。

 

そう思ってしまうのは、自分がひねくれているからなのだろうか。

 

 

ここまで書いて、なにも見ないで批判はよくないと、youtubeで涙活のビデオを見てみたが・・・。

 

4つでギブアップ!

 

泣けるどころか、イライラとモヤモヤばかりだった。

 

・東日本大震災をとりあげたもの。

・障害のある方の結婚式の父親への手紙。

・オリンピックのスポーツマンシップの話。

 

違うチャンネルから、

・脳性マヒの方がお母さんに書いた詩

 

うーん。

 

どれもこれも、

「フツーは○○!だけど△△。だから感謝。そして感動」

 

みたいな図式にまとめることができる。

 

さぁ、感動せよ!さぁ落涙せよ!

と言わんばかりのBGMもあいまって、幻滅。

 

これって、オフィシャルなやつじゃないからかもしれないけど、

 

これだけ「泣ける話」「感動の話」

と銘打って、どうにもこうにも、題材になっている方々に失礼極まりないものがyoutubeに溢れているとは驚いた。

 

 

まずは動画の文脈の「フツー」をシェアしなさい

 

というのであれば、

もはや暴力的ともいえる動画の数々。

 

それを、「涙活」という名の下に大量にばらまいているとすれば、

 

もはや「人類類型化活動」略してruikatsuではないか。

 

さきに書いたように、

感動も、共感も、自分のものさしを当てはめられる相手にしか、起こらないのである。

 

ある意味、自己投影であり、自己拡張であるのだ。

 

涙活で共感の涙を流す人は、

ぜひそのことを覚えておいてもらいたいなと思う。

 

あなたが感動の涙を流すたび、

あなたはその文脈の「フツー」の類に染まっている。

 

*2

*3

*4

 

 

男女別トイレじゃないと困るのは誰なのか

「男女別トイレはもうやめて、全部個室にしようよ!」

 

っというのが、前回書いた私の経験から出てくる思い。

 

ですが果たしてこの思い、世の中のどの程度の人に共有されるのでしょうか?

 

*Yahoo意識調査

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まぁちょっと、調査の説明も二つの質問も乱暴だなという印象がぬぐえませんが、傾向の参考程度にはなるかと思います。

 

結果は10日間で20万票。うち88%もの人が、「男女別トイレを減らすべきではない」と回答。

 

*私の友人数名に聞いてみた。

 

・「異性の存在感がするだけでイヤ(女性)」

音姫は使われるものの、ただの気休めってことですね。

 

「男が使ったトイレは汚そう」(女性)

(いやいや、それも偏見ですけどね〜)

 

「なんか緊張する」(男性)

(わかるけど、男の便器の独特の緊張感もあるでしょ?)

 

 

世の男女のパートナーがトイレを共有していることがなんだか奇跡のように感じますね〜。

このような、トイレの共有という高い壁、便器という深い溝を乗り越えてみなさま共同生活を営んでいるわけですね。愛の深さが想像できます。

 

・・・冗談はさておき。

 

このアンケートのきっかけになった2015年のカリフォルニア州サンフランシスコの小学校。

 

保護者の一人は、この取り組みに対して

 

「つまり、家のトイレと同じになったわけね」

 

と話しているそう。

 

そうなんです。

 

そもそも気づいたことは、

 

誰も本当は、他人とトイレの共有なんてしたくない。

 

その中でトイレの問題って、

「性別カテゴリーに収まらない人をどうするか」

っていう話に見られがちだけど、

 

実は、

「男と女の壁を、どうしてそんなに高く作るのか?」

 

っていう問題なんじゃないかと思うんです。

 

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上のイラストは、シアトルの高校生が自主的に行動し、男女どちらでも使えるトイレを学校に作った時のもの。それが広がり、その後すぐにシアトルの半数近くの高校に、このようなジェンダーニュートラルなトイレが作られているといいます。

Year-long student effort leads to gender neutral bathroom at Seattle high school | KIRO-TV

 

「インクルーシブ=包括的」

つまり、男でも、女でも、それ以外でも入れるトイレ。

 

いいネーミングだと思うのです。

 

そしてひるがえってみて、

男と女に分けられたトイレ、というのは、

 

「それ以外」の人の行き場がないから問題だ、

ということではなく、

 

「誰もがみんな、どちらかにはまっていないといけない」

 

「男と女は、まったく違うもの」

 

というメッセージをそれだけで発してしまうから問題なのだと思うのです。

 

男だって、綺麗にトイレを使えます。

女だって、汚す人は汚します。

 

要するに人それぞれ多様であって、「男ならこう」「女ならこう」って絶対に決められないはず。

 

それなのに、男と女に空間がしきられていることによって、それぞれの実態が見えなくなる。

 

だからこそ、

「女はきっとトイレが長いから面倒くさ」とか

「男は汚く使うからそのあとなんて使いたくない」とか、

 

「分からないけど無理」的な状況が生まれてしまうのではないかと思うのです。

 

 

最初のアンケートのきっかけになったサンフランシスコの小学校の先生の言葉。

 

「児童全員に安心感を持ってもらいたいだけではなく、全員が一様に平等であることを理解してもらいたい

男女別トイレを段階的廃止、米サンフランシスコの小学校 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 

そして、当事者でもあり、男女の枠に収まる性別意識を持たない1年生の児童の言葉。

 

「これならいいよね。誰も人間を区別する必要なんてないんだ」

男女別トイレを廃止するサンフランシスコの小学校 「誰も人間を区別する必要なんてないんだ」

 

本質的には、これにつきると思うんです。

 

セクシュアル・マイノリティだから配慮が必要なのではなくて、

 

男と女に区別しすぎるマインドセットを変えることで、

 

自由になるのは

 

セクシュアル・マイノリティじゃなくて、

 

みんな なんだっていうこと。

 

だからやっぱり、少しずつでも、誰でもトイレが増えていって、男女別トイレは、「どうしても」っていう人のためのものになったらいいなと思う。

 

男女別トイレじゃないと困るのは誰なのか?ープロローグ

公衆トイレが苦手。

 

性別違和がある人にはよくある感覚かもしれないですね。

 

そもそも、「男女別トイレって必要?」っていう話をしたいのだけど、その話をする前に、どうしてそう思うにいたっているのか、私の経験をお話しします。

 

 

私の場合、「身体は女型」と割りきって、基本的には女性トイレを使っている。

 

のですが・・・。

 

以下、あるあるパターン。

 

 

覚えておいて欲しいのは、女子トイレに入ると決める時は、いつも「平静を保つ修行」スイッチを心の中でポチッとします。

 

その覚悟の上で、いざ!!

 

①動くモアイ像モード

 

女性トイレスペースに足を踏み入れる。

 

→できたら人がいないことを確認。

人がいても、怪しい空気が流れないことを確認。

 

→視線があったってなくたって、「だって体は女だもんね」と、普段は全否定しがちな自分の体にしがみつくようにして安全なる個室へ滑り込む。

 

さながらモアイ像がいきなりトイレに入ったらどういう反応をするか、モアイ像になりきってみんなを観察している気分。

 

or 視線が怖すぎて本懐をとげずスゴスゴ退場

 

モアイ像がトイレに入ってくることで、その場に慌てる人がいたら、それはもう、モアイ像はゆっくりと出て行く。

 

 

②トイレのゴキブリモード

 

女性トイレスペースに足を踏み入れる。

 

→なにごともなく無事、安息のパーソナルスペースに入場。

 

→聖域を出て、聖水をいただくごとく手を洗っていると、鏡ごしに、トイレに入ってきたおばちゃんと目が合う。

 

→おばちゃん、「はっ!」とびっくりした顔をして慌ててトイレエリアから退出。

 

→5秒後、納得いかない顔をしながらおばちゃん、再入場。

 

こういうマダムは上品にも、自分が間違えて男子トイレに入ってしまっていないことを確認しているのです。

 

そして、慌てず、騒がず、ただ不審げな目線だけを送ってきます。

 

マダムは決して自らの手を汚してゴキブリ退治に乗り出したりはしません。

 

なので、こちらも慌てず騒がず。カサカサと退散するのです。

 

③指名手配犯気分

 

トイレに入場。

 

→怪しげな目線をこちらに送りながら、急いで出ていくおばちゃん。

 

やばい!

 

(こういうケースはたいてい警備員か警察を呼んでくる)

 

→慌てて逃げる。

 

「実は女なんです」

なんて説明、死んでもしたくない。漏れた方がましである。もはや、モアイ像とかゴキブリとか言ってられないのであります。

 

悪いこともしてないけど、とにかく「あの人です!」って言われる前に出ていかなきゃいけないので、逃げます。

 

以上、3パターンでした。

 

もちろん、無事にトイレの個室に入り目的を果たすことも多いのですけど・・・。

 

こんなことが何度も起きたら、トイレに行くの、嫌になると思いません?

 

それにしても、どうしてそうして慌てるのは、お姉さまじゃなくておばさまなのでしょうか。

 

そんなわけで、我思うに、

 

「トイレなんて全部個室だけにすればいいじゃん!」

 

ですが、そういう話をするとあまりいい反応だけでもありません。

 

次回はそこらへん、じっくり考えてみたいと思います。