違いを大切にする、という社会システムにむけて
私は、年齢も性別も、人によって全然見られ方が違う。
それは、ときに人を困らせる。
なぜなら、それらはコミュニケーションにおける重要インフォメーションだから。
アンケートだって、年齢・性別の記入欄があるのは、つまりそういうことなのだろう。
自分より年上かどうか。
性別は男?女?
みんな、そういう「型」にそって相手を判断して、どんな自分をあらわすか決めている。どんな会話ができるかどうか、推測している。
その「型」がないのは心細いし、なによりその「型」を間違えて相手を見ているなんて、失礼中の失礼だと考えられている。
でもでも、なんで失礼?
たぶん、それは、”「型」にはまってること”が、大事な社会のルールとされているから。年齢と性別によって、どんな人間であるべきか決まっているから。
ちゃんと「型」にそって社会の一員になっているその人の、その「型」を読み間違えたとしたら、読み間違えた本人の作法がなっていない、という論理になるのだろう。
でも、失礼だなんて思う必要、ないんじゃないかと思う。
私は、年齢も性別も、人によって見られ方がぜんぜん違う。
「まだ学生かと思っちゃった。ごめんね」
「男の子と間違えちゃってごめんね」
いつも、謝られて混乱するのだ。
この人たちは、なにを謝っているのだろう。
なにを「誤った」?
なぜ「誤り」に気づいた?
そして、なにを誰に「謝りたい」?
もう一度、型にはめたいだけなんだと思う。
30代らしくなくて、メス型の身体にふさわしくない振る舞いをする私を、
「間違えてごめんね」と言いながら、その「あるべき型」に戻そうとする。
「あるべき型の内側にいるべき私」を宛先に言葉を発する。
そこに私はいないのに。
そこにいない私は、謝られることで、勝手になかったことにされていく。
私はそれが悲しい。
歳なんて関係なく、性別なんて関係なく、
一人ひとりの持っている良さを組み合わせて、織り合わせて作る社会がいい。
きっともっと、コミュニケーションが大事になる。
きっともっと、違いを認めることが大事になる。
私たちは、「型」にはめることなく、相手を事前に知ることはできないから。
見かけだけで間違えて型にはめてしまうだろう。
そしたら謝ればいい。
それは、私が謝られているのと逆方向の豊かな間違いだ。
「勝手に女だと決めつけちゃってごめんね」
「30なら結婚してるでしょとか決めつけちゃってごめんね」
「型」にはめるという失敗に気づくごとに、私達自身がたぶん、より自由になっていく。それは、どんな人間になるべきか定まっている社会より、面倒くさくて、豊かで、なにより面白いと思うのだ。