「経験」や「気持ち」を比べる人は、間違いなくあなたを黙らせようとしている人である
小さいころ、ぜんそくがひどかった。
犬が欲しくて欲しくてたまらなかったのだけど
「ぜんそくがあるうちはダメ」
と母親に言われていた。
さらに、いつものように付け足される一言。
「本当はお父さんが一番飼いたいのに我慢しているのよ」
「ほんとうって、なに?」
「一番だって、どうして分かるの?」
小さいころによぎった疑問や違和感を思い出した。
そのきっかけが、横浜関内でおこなわれた講演。
「私たちはいかにして分断を超えられるのか~障害者福祉・ヘイトスピーチ・生活保護から考える 」という、アツいタイトルの濃い時間だった。
基調講演
「人間の顔をした財政を取りもどす~『頼り合える社会』をめざして~」
井手 英策 さんの話からは、1997年からのここ20年で世帯年収が20%も減少した日本社会のガタガタ感が余すところなく伝わってきて、泣きそうになってしまう。
・世帯年収300万以下の世帯が34%、400万円以下は48%
・貯蓄率も97年以降急下降。今はマイナス。
・男性労働者の自殺も97年を境に激増。今はその世代が年金受給者層になったことで、自殺者が減っている。(もう死ぬ人は死に絶えた、という衝撃的なことば)
そんな中、外国人や年金受給者、精神疾患の人たち、さらには高齢者への風当たりがつよくなっている。
「その程度の仕事でうつ病になるなんて(ただのサボりだろ)」
「私はもっとガマンしてきたのに(ガマンが足りない)」
「自分はこんなにつらい経験をしてきたけど、ちゃんとがんばって生きている」
「もっとつらい人がいる」
「あいつらは、社会のお荷物だ」
言ってることはよく分かる。
「みんな、つらいんだ。」
→「だからお前もがんばれよ・我慢しろよ」
→「それができないなら、この社会から出ていけよ=死んでしまえ」
言っていることはよく分かる。
そして、こんなさみしい社会で生きているのは、つらい。
神奈川県では、小田原の生活受給者への「不正受給は人間のクズ」と書いたジャンバーを着用していた事件、相模原での戦後最悪の殺傷事件。川崎でのヘイトスピーチ・・・。
よくよく見れば、どれも加害者が苦しい立場に追い込まれた「弱者」だったことがわかる。「弱者」が自分を「弱者」だと認められぬまま、助けも求められぬまま、自分より弱い誰かを探して、たたいた。
まるで、沈みかけた船にしがみつく人々を叩き落とすように。
注目すべきは、日本の世帯収入は1997年からの20年で20%も減少しているのに、ずっと、みんな「自分は中流=普通なんだ」という幻想を持ちつづけているというデータだ。
みんなの所得が減っているのだから、その「普通」の感覚はまちがっていないとも言えるだろうし、手放したら「貧困」という屈辱に落ち込んでしまうギリギリの矜持とも言えるだろう。
でも、そんな全国民的大我慢大会をしていて、だれか救われるだろうか?
沈みかけた船に必死でしがみついていても、船は直ったりしない。
苦しいときに、苦しいといえて、辛くなったら、休んでも、家も食べ物も失わない。そんな安心して暮らせる社会は作れないのか?
井手さんの考えは明快だ。
・税は負担じゃなくて、個人がそれぞれに負担しているリスクを全体としてカバーすることで、結果として負担を軽減するためのもの
・税金を増やして、「貧しい人」に、ではなく、「すべての人」に再分配することで、確実に格差は縮まる。
・誰もが使う医療、福祉、教育に税金をあてれば生活保護の大部分は不要になる
税金=負担→政府の無駄遣い
という妄想にまみれていたけれど、税金を根本的に考えてみることで、
今の社会のありかたが変わるかもしれないと感じた。
沈みかけた船で「もっと頑張れよ」という人は、しんどい人だ。
そのしんどさや経験を認めつつ、私は言いたい。
その船に我慢しながら乗っていることは、自分の辛さにフタをして、誰かの辛さにフタをすることだ。
それは、まちがいなく誰かを黙らせ、苦しめ、もしかしたら死に追いやっている。
そんな我慢大会を終わらせる方法はひとつ。
我慢しないこと。おかしいよ、苦しいよって言いながら、
どうしたらいいのか考えていきたい。